奈良県五條市は明治維新発祥の地とされており、かつて五條では明治維新の先駆けとなる歴史的な出来事がありました。

今回は、奈良県五條市が明治維新発祥の地とされる理由と、明治維新発祥に深く関わりのある天誅組についてご紹介します。

歴史好きの方や奈良県五條市を訪れる予定のある方はぜひ最後までご覧ください。

明治維新の先駆け?奈良県五條市で結成された天誅組とは

1853年にアメリカのペリー率いる艦隊が日本に開国を求めて来航したことをきっかけに、江戸幕府の統治体制が崩壊し始め、江戸幕府15代将軍の徳川慶喜が「大政奉還」を行ったことで、1868年に明治政府が誕生しました。

この幕末から明治政府が誕生するまでの政治的変革を「明治維新」と言います。

誰もが学生のときに習ったであろう「明治維新」ですが、実は明治維新の先駆けとなったのは奈良県五條市の天誅組とされています。

ここでは、天誅組の歴史となぜ天誅組が明治維新の先駆けと言われているのかについて解説していきます!

天誅組の始まり

出典:奈良県五條市 | 明治維新発祥の地

1863年頃の日本では、鎖国が終わり江戸幕府の勢力が弱くなっていく中で、幕府を倒して新たに天皇が中心となって政治を行おうとする「尊王攘夷派」と、朝廷と幕府が協力して政治を行おうとする「公武合体派」の2つの派閥が対立していました。

このときに尊王攘夷派の志士たちで結成されたのが天誅組です。

尊王攘夷派による初の武装蜂起。奈良県五條市で起きた「天誅組の変」

京都東山の方広寺にて結成された天誅組は伏見から淀川を下り、河内で同士を加えて総勢約80人となった後、1863年8月17日には幕府が直接管轄していた五條代官所(現:奈良県五條市)を襲撃し、代官ら5人を斬首しました。

その後、五條代官所の近くの櫻井寺を本陣として、「五條御政府」を設置し、幕府による統治排除を宣言します。

また当時、京都の政局を尊王攘夷派が握っていたため、この機に倒幕をはかろうと尊王攘夷派の公家や長州藩兵らが、倒幕計画の1つである「大和行幸(孝明天皇による攘夷祈願のために参拝などを行うこと)」を計画していました。

しかし、天誅組が五條代官所を襲撃した翌日、京都では政変が起こり、公武合体派の公家や会津藩、薩摩藩の画策によって、尊王攘夷派の公家や長州藩兵は京都から追放され、尊王攘夷派が計画していた大和行幸は中止になります。

その結果、天誅組は挙兵の大義名分を失い、さらには逆賊となったことで幕府の追討軍に追われることになります。

幕府との1ヶ月あまりの攻防の末、天誅組は終焉に

それでも天誅組は徹底抗戦することを決め、8月26日に高取城(現:奈良県高市郡高取町)を攻撃しますが、高取藩の反撃により敗退します。

その日の夜に、天誅組は再び攻撃を仕掛けるも失敗に終わり、天誅組は天辻峠(現:奈良県五條市大塔町)に逃げ込みました

さらに19日後の9月14日には追討軍が追ってきたため天誅組は本陣に火を放って放棄し、そこから異なる地域に本陣を転々と移しましたが、幕府側追討軍との戦況は良くならず、10日後の9月24日に鷲家口(現:奈良県吉野郡東吉野村)で天誅組はほぼ壊滅となります。

挙兵からわずか1ヶ月あまりの出来事でした。

その後、天誅組の挙兵に関わった隊士たちは討死・暗殺などによって命を失ったり、追討軍によって捕縛されたりしました。

奈良県五條市は明治維新の先駆けの地に

この天誅組の出来事は、明治維新のわずか5年前の出来事であり、天誅組の挙兵は尊王攘夷派として一番最初の武装蜂起だったため、明治維新の先駆けとなる歴史的なものでした。

その結果、奈良県五條市が明治維新発祥の地と言われる所以になっています。

奈良県五條市にある「五條市民俗資料館」では、天誅組の足どりやゆかりのある資料が数多く展示されています。

また、近くには天誅組が本陣とした櫻井寺もあるため、奈良県五條市に観光で来られた方はぜひ一度足を運ばれてみてはいかがでしょうか。

明治維新発祥の地・奈良県五條市で学びある旅を

奈良県五條市が明治維新発祥と言われる理由についておわかりいただけたのではないでしょうか。

奈良県五條市は歴史に興味のある方にとって非常に魅力的なまちとなっているため、ぜひ旅行に行かれる際は奈良県五條市に足を運んでみて下さい。

また、一日奈良県五條市の歴史を学んだ後は、「ロッジ星のくに」で家族と一緒に夜空に輝く星を眺めながら、ゆったりとした時間を過ごすのはいかがでしょうか。

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