今回は、五條市近内町に、2008年11月に公開された登録有形文化財 「藤岡家住宅」の管理法人NPO法人うちのの館、館長 川村優理さん(以下、「川村さん」)にインタビューしております。

学芸員、童話作家、エッセイストなど、多彩な才能をお持ちの川村さんに、藤岡家住宅の魅力についてお伺いしました。

みなに愛された藤岡長和氏の生涯・・・俳人「藤岡玉骨」として半生が詰まった、幾多の商屋としての顔も持つ「藤岡家住宅」

地元の人たちにとっては、江戸時代の庄屋さんの家として知られていましたが、藤岡家は庄屋以外にも、両替商、質商、薬種商、紺屋など商家としての顔も持ち、店の間のある母屋は天保三(1832)年に建てられ、また内蔵は藤岡家では最古の寛政九(1797)年に建てられました。

この屋敷の主であった藤岡長和は俳人としても活動をし、俳人の名を藤岡玉骨(ぎょっこつ)とし、活動の幅は広く与謝野鉄幹・晶子、石川啄木、森鴎外など、当時の名だたる文人たちと交わされた書簡や直筆の書画など、貴重な資料が多く残っています。

 

ーーはじめに、現在の「藤岡家住宅」ができた流れと、現在はどういった使われ方をしている場所かについてお伺いしてもよろしいでしょうか?

川村さん:そうですね、現在の「藤岡家住宅」ができた流れについてまずお答えしますね。誰もお住まいになってない旧家がありまして。江戸時代からの庄屋屋敷なんですけど。基本的におよそ200年前後の建物が、30年間無人の状態で荒れていたので、これを何か活用したいということで・・・。
当時、ご当主は茨城県におられて、なかなか帰って来れないということで、NPO法人がその管理と運営を引き受け、“NPO法人うちのの館”として当時、田中修司理事長の運営で一般に公開されました。

ですからどんな形で運営するのが1番合うのかって・・・試行錯誤の繰り返しで。
まず現在のところは、地域の資料館として郷土系の博物館と言う形で資料を中心に皆さんに公開しています。

コンサートや俳句会、もうすぐ子供俳句教室が五條ロータリークラブさん主催で開かれますけど。
あとは会議等に会場として提供しているのが現在の形です。

最初はもっとお食事ができて楽しめたり、イベントとかも試みました。ほぼ3年のコロナを経て・・・今はそうですね教育機関というか一般的に言うと、博物館協会に所属する文化施設・・そういう名称になるかと思います。

ーーありがとうございます。「うちのの館」というのがNPO法人さんの名前で、こちらのお家が「藤岡家住宅」ですか?

川村さん:正式名称は「登録有形文化財『藤岡家住宅』」です。

ーーNPO法人というのがあまり聞きなれないというか・・・NPO法人自体の活動というのは、どなたがされているんですか?

川村さん:今の理事長がご当主の藤岡宇太郎さんになっていまして、この旧家の施設を使って、1つは観光、それから教育の場として提供しています。地域の方々に隣のグランドを貸して、グラウンドゴルフをされたりとか、米倉を地域の集会場に開放されたりとかですね。

他には登山や散策の方に、休憩のご案内や地図や交通機関の時刻表を提供しています。

ーー事業形態としてはNPO法人の運営でされているという事なんですけど。

川村さん:動いてるその事業としたら、資料提供でこの場所の提供。展示施設になってるんで、俳句教室など。そうですね・・1番の主な事業としては教育機関ですね。

それから観光機関としては、観光自転車という事業を持っており、五條の駅前の観光案内所で自転車をお貸ししています。五條は交通機関が少ないですから観光案内所さんが窓口になっていただいて。こないだも大学生さんにお貸しして新町とか走ってもらいました。

ーーじゃあ駅前の観光案内所に自転車があってということですよね?

川村さん:そうです。置く場所がないので今は4台なんですけど、まぁそういうこともひとつの観光業務として行っています。

ーーそれはこちらからお願いしてというか向こうからご依頼があってですか?

川村さん:詳しく言えば、当主の藤岡さんは、五條市にこの施設を寄付したいとおっしゃって。
“修理も全部して中の軍物も寄付するので、どうぞ地域の教育機関としてうまく利用してください”と。

でも五條市も維持管理をそこまで引き受けるのは無理なので、ということになって。一応形としては請け負ったということでいいのかなと思うのですが・・・。あまりにもったいないのでNPO法人が請け負ってやりましょうと。

まぁよくありますよね。民間主導で“官”と“民”との協力を得るということが。

でもこの施設の中から与謝野晶子の手紙とか、割にすごくいろんなものが出てきて。

五條市さんも、本来は市に寄付しますよと言うてくれるもんやから、何とか協力できる形はないかって探る期間がずいぶんあって。何か協力できないかみたいな・・・こうひとつの“協働作業”・・・“協力”と“働く”っていう・・・。

探りながらというか手探り状態もいっぱいあって。
その中でなんていうかこう時代の流れ・・・コロナも含めてですが。どんな形で民間と行政が、両方活かせる形になるかっていう、ひとつの”モデルケース”って言ったらいいのかな。

そんな形で、開館15年目になりましたけど、まだいろいろ探りつつ、っていうところです。

ーーそうですよね確立されてないサービスっていうか、やってるところがないから何が正解かも・・・

川村さん:わからないですね。まずみんな考えるのはおしゃれなカフェにしようとかまず思うんですよね・・・。

ーーそうですよね

川村さん:これが北宇智の駅前ならまた違った部分もあったんでしょうけど・・・。なんかこう流れの中で、文化機関という形が主導になってきてるんです。でもこれからコロナが収束したら、またどんな形になるか、ここもまだ手探りというか。

ただ今年博物館協会に入れたので、そっちの方がどうも主軸になってきて、形がちょっと見えてきたかもしれない・・・。

ーーじゃあ15年目の今も・・・

川村さん:そうです、探していて・・・。地域商社に参加しているのも、官と民と共同っていう形で何かできないかとか。そういう志のある方のお話を聞いて、その中で何かこう地域のものを、どうやったら活かせるのかっていうのを、まだまだまだ探っているというか。

まぁ時代の流れの中で、なんとなくそんなところに落ち着くのかな・・・みたいな気がしています。

ーー先ほど五條の話も出ましたけど、この五條とのつながりというのは、藤岡玉骨さんがお生まれになった聖地があるので、それを活かしてということでしょうか?  

川村さん:玉骨というのは11人兄弟でして。当時、男の子4人が旧五條中学で・・・今の五條高校の前身なんですが、みなそこを卒業して、そこから4人の内の2人が東京大学、昔の帝大(東京帝国大学)に入学して。
1人が京大の法学部で、もう1人が阪大の医学部で。皆さん北宇智小学校から五條中学に、そこから第三高等学校(現・京大)とかに行って、すごく活躍されたんですけど、五條にずっと根ざしていていました。

そのあと玉骨さんは南都銀行の取締役をしながら、ホトトギスの俳人をしたり。玉骨さん以外のご兄弟も皆さん優秀な方で、玉骨さんだけでなくて、三男さんは車は左側通行をすると決めた人なんです。次男さんは明星の同人で、与謝野晶子や鉄幹(与謝野晶子の夫)とものすごい親交があった方で。
そういう、いろんな力の“根っこ”みたいなのがあるので・・・。

それが五條の子供たちの今後にどんな風に影響を及ぼすか、まだまだわからないんですが。

でもいろんな県の方がここに来てくれるのは、玉骨さんが、佐賀、熊本、和歌山県の官選知事をされていたからなんです。戦前は知事さんが内務省官僚も兼任していたので県を転任していくんです。帝大を出て最初に赴任したのが愛知県なんです。玉骨さんはいろんな県に行って、全国を渡り歩いていたんです。

三男さんも香川、静岡、兵庫県の知事さんだったんです。だからみんないろんな繋がりが全国でできて。特に和歌山県との繋がりがすごく強くて。そういう意味で、五條の可能性みたいなものも、どっかまだまだあるんかなぁって思います。

ーーそうなんですね。でも誰しもこのようなすばらしい文化財的な建物が近くにないので、五條の子供たちは貴重な体験ができますよね。

川村さん:そうですね。時々、五條中学生がスケッチに来てくれたりとか、野原小学生のお子さんが昔の暮らし探検とかで来てくれるんですが。びっくりするぐらい今の小中学生は賢いですね。よう勉強できるんです。知識として教科書の絵で覚えてるんです。

ところが、ちょうちんを触ったことない子がほとんどで。そういった子供たちが実際の品を「あっこれや!」って触るんです。昔の黒電話も、知ってるんやけど使い方がわからない。だから列を作って受話器をあげて「もしもし」って話してみたり。昔のおひつにも触れたり・・・。

実際にさわって触れるっていうことが、もっとこう地域にとって落ち着いた教育になるのかなぁ、と思って。だからどんどんみんな、そういうのを体験しに来てほしいなって思います。

ーー今はおじいちゃんおばあちゃんと暮らしている子も少ないし・・・

川村さん:そうですね。おじいちゃんおばあちゃんといっても若いですもんね。みんなほんまに賢くてよう勉強してるとは思うけど、でも絵とか写真でやから。実際に触ったらこんな感じやねんとかね・・・。だから破れたちょうちんも、割れた電球もいっぱい置いてあります。そういうのを見せたいので。子供たちが体験できる場所でありたいと思います。

藤岡家住宅を掃除をしてると、五條の古い地図がでてきたりしました。以前に、開かずの金庫を開けるっていう番組に出させてもらった時も、どうやっても開かない手提げ金庫がありました。それを江戸時代の竹製のバネ仕掛けで開けてもらったら、そこにぎっしり文殊があって。3つの箱だけで1841個詰まってて、おっきな地図もあったりして・・・。スキャンしないと劣化するので、今それを全部、米倉でデータ化してもらっています。外注で週に2日でやってもらってるんですが、それがまたこれから五條の資料になるなぁって思います。

それともうひとつ私が1番大切にしたのがあります。明治時代の小学校の教科書がいっぱい出てきたんですね。明治6年に小学校が始まるんですけど、明治3年に日本で初めて国語教科書が作られて。開いてそれを読んだら、お母さんがまだ着物の時代で。いろはを筆で教えてるんだけど、その国語の教科書の後半全部が、お米がどうやってできるかを丁寧に絵で解説していて。

五條って農業がすごい大事でしょう。今の子供たちってデジタル化の世界にいて、速いのが偉いとされる時代やけど。1枚ずつ紙をめくって、お父さんお母さんが“農業ってこんな大事やで”って、手の感覚で伝わったらいいなと思って・・・。

だから明治時代の小学校の本がたくさんあるので、それをまずデータにして、ホームページからダウンロードしてもらって、子供さんたちにホッチキス止めでいいので、本を作って読んでもらいたいなと。
そういう教育は、戦前の教育って戦争の事でパタッと止まってしまってるけど・・・。
もっと明治時代の森鴎外や夏目漱石や正岡子規・・・みんながまだ若者やった時代のものがあるので、それを五條の人たちに見せたい、読んでもらいたいなぁって。

そして今いる土地を知ってもらいたいです。
それが私の願いです。

 

ーー創業についてですが15年前に・・・

川村さん:そうですね。平成20年の11月11日11時11分に開館しました。

ーーえーーっすごいですね!それは何かこだわりがあったんですか?

川村さん:当時の館長の田中修司さん(柿の葉すし本舗たなか創設者)がそうしようって決めはったんです。

ーーすごいですね・・・創業日が1並びになっていますね・・・

川村さん:でも始まりは一体どうなるのか・・・私もわからへんしで・・・。まだまだこれから・・・。

ーー創業の時期やきっかけを教えて下さい 

川村さん:創業のきっかけは平成10年の台風やったんです。うた代さん(玉骨さんの奥様)という方が亡くなってから、ずっと無住宅やったんですけど、平成10年9月の台風で近くの神社の木まで全部倒されて。この家も瓦がほとんで飛んでしまって、ご当主は大工さんに頼んで簡単な修理をしてもらったんですけど、このままほっといたらあかんしということで。で、どうしようと思ってインターネットで探していたら、山本陽一さんに辿り着いたんです。

ーー山本酒造(新町にある酒蔵)の?

川村さん:そうですそうですね。山本陽一さんに、「北宇智にこんな建物があるねんけど、どうしたらいいでしょう」って相談したら、山本陽一さんから五條市に声をかけてもらって。そしたらそこから、前理事長の田中修司さんが「私とこ参加できへんかな?」と声をあげてくださって。きっかけはそれでして・・・みんなの心があってのことやったんです・・・。

そしたらそこからロータリークラブさんが、藤岡さんとこやったらということで。ちょうどロータリークラブさんも創立50周年だったんで、子供俳句教室しましょうってなりました。みんな、藤岡先生のためやったら、ということで集まって来てくれて・・・。

ーーそれも玉骨さんのお人柄ですね

川村さん:そうですね。ほんとそうですね。ちょうど今年65周年のロータリークラブさんのなので、今度の俳句教室は玉骨さんの持っていた、昔のロータリークラブの資料を出して見ていただこうと思って、今出しております。

ーー多岐に渡るつながりと言うか・・すごいですね。 形にならないのもわかる気がしますけど・・・

川村さん:玉骨先生に世話になったしとか、藤岡さんにたくさん寄付してもらったしって言って、みんな寄付もたくさんしてくれるんで・・・。

ーーそうなんですね。玉骨先生のお人柄ですね

川村さん:それがちゃんと返ってくるんです。

ーー人とのつながりがほんとに有難いですね・・・

 

ーー現在、館長は川村さんがされてますけど・・・

川村さん:私もここに来るようになったのは、ある日、父にここに来ることを相談したことがあって。

実は父が14歳の時・・・当時、玉骨さんがされていた俳句会に、ひとり大人の中に混ぜてもらった時に、“玉長”っていう“号”をもらっていたそうで。
玉骨先生は戦前までは官僚で全国を転々としていて、戦後の昭和20年にここに帰って来て、ここで俳句会をしてはったんですけど。その時五條は俳句ブームやったんですって。
それで私もここに来ないかっていうお話をもらったんだけど・・・って父に言ったら、「いやぁ、わしここで14歳の時に玉骨先生に俳句習ってたから、それやったら玉骨先生とこでお手伝いしなさい」ということで・・・。でも父と玉骨先生と繋がりがあるって私知らなくって・・・。

ーーそれもほんとにご縁ですね。

川村さん:ご縁ですね。ご縁しかないです。

 

NPO法人うちのの館へのインタビューpart2では

今回は奈良県五條市の登録有形文化財 「藤岡家住宅」の管理法人NPO法人うちのの館、館長 川村優理さんにインタビューさせていただきました。

part1ではNPO法人としての活動、事業のきっかけや俳人「藤岡玉骨」の生い立ちなどについてお話しいただきましたが、part2では五條市についてや今後の展望などについてもお聞きしましています。

ぜひpart2もご一読ください!