【花火文化の歴史】「鍵屋」「玉屋」のルーツは関西の〇〇にあった?
夏の風物詩、花火。
花火大会でおなじみの「かぎや〜」「たまや〜」という掛け声は聞いたことがある人も多いでしょう。
実は、この「かぎや〜」「たまや〜」という掛け声のルーツは関西・奈良県五條市にあるとされています。
今回は、花火文化の歴史、花火と関西・奈良県五條市とのつながりについてご紹介していきます。
花火の掛け声の始まりは、関西・奈良県五條市からだった?
まずは花火の歴史について解説していきます。
花火は火薬と共に中国から伝わったもの
花火は、中国から伝わったとされています。
中国からは、花火の他にも様々なものが日本へ伝来していますが、その一つに火薬があり、それが発展し今の花火となりました。
火薬は武器として中国やヨーロッパで多く使われるようになり、日本では戦国時代の火縄銃とともに火薬が全国へと伝わり、使われるようになりました。
またこのとき、火薬とともに花火も発明されており、中国ではすでにロケット花火に似たようなものを戦中で使用していたことが伝えられています。
当時、花火は戦の武器として使用されていましたが、今の花火のように娯楽として使用し始めたのは13世紀以降のヨーロッパの貴族だと言われています。
日本で初めて花火を見たのは、あの有名な将軍だった!?
色々な諸説がありますが、日本で今の花火に一番近いものを初めに見たのは徳川家康だと言われています。
慶長18年(1613年)に、イギリスは日本との貿易を開始するためにジョン・セーリスらの使節を日本に派遣しました。
そしてこのとき、ジョン・セーリスは中国人を連れて駿河城の城内にて徳川家康たちに花火を披露した、という記録が駿府政治録に残っています。
その後、徳川家康が出身地である三河の砲術隊に命じて観賞用の花火を作らせたというのが、日本における花火の起源だとされています。
花火の掛け声の始まりの人とされている関西・奈良県五條市大塔町篠原出身の鍵屋弥兵衛と花火の繋がり
花火大会などで「かぎや!」「たまや!」という掛け声を聞いた方は多くいるでしょう。
花火の際によく聞くこの2つの掛け声のルーツは、関西・奈良県五條市大塔町篠原出身の鍵屋弥兵衛が開いた花火屋「鍵屋」にあると言われています。
次に、関西・奈良県五條市大塔町篠原出身の「鍵屋弥兵衛」と「花火」の深い繋がりについてご紹介していきます。
関西・奈良県五條市大塔町篠原出身の「鍵屋弥兵衛」とは
鍵屋弥兵衛は関西・奈良県五條市大塔町の出身で、木地師(木工職人)一党の集落として栄えていた篠原で3男として生まれ、のちに五條の火薬製造所に奉公に出されます。
関西・奈良県吉野川の川岸に生える葦に火薬をつめて、手花火(=手に持って遊ぶ小さな花火のこと)を作ることを思いつき、「火の花」「花の火」「花火」と名前をつけて売り始めました。
鍵屋弥兵衛の作った手花火はたちまち話題を呼び、飛ぶように売れたことで、江戸へ出て本格的に商売をしようと日本橋横山町で「鍵屋」を開くことになります。
鍵屋弥兵衛は江戸へ行って間もなく幕府御用達の花火師となり、隅田川で初めての花火を鍵屋弥兵衛が打ち上げたとされています。
「鍵屋弥兵衛」と「花火」にはどんな繋がりがあるのか?
「かぎや~」「たまや~」は、江戸時代の有名な花火師の屋号である「鍵屋」と「玉屋」が由来とされています。
享保18年(1733年)に日本最古の花火大会である隅田川花火大会(当時は「両国川開き」と呼ばれていた)が始まり、最初期は鍵屋が花火の打ち上げを担当していました。
そして、約150年後の文化5年(1808)には、鍵屋の万事をとりしきっていた番頭・玉屋清七(のちの、玉屋市兵衛)が独立して「玉屋」を創業します。
その後の両国川開きでは、両国橋の上流で玉屋が、下流で鍵屋がそれぞれ花火を打ち上げるという2業者体制で花火の打ち上げが行われ、花火を観に来た観客たちは鍵屋と玉屋の双方の花火を観て、すばらしいと思った方の屋号を叫んでいました。
それが、花火見物で今でも続いている「かぎや~」「たまや~」という掛け声の始まりです。
このように鍵屋弥兵衛が開いた「鍵屋」の名前が、今でも花火の掛け声として引き継がれています。
花火の歴史を知り、関西・奈良県五條市の花火を楽しもう!
今回は、花火大会の歴史と、関西・奈良県五條市大塔町出身である鍵屋弥兵衛についてご紹介しました。
また、関西・奈良県五條市には吉野川が流れており、毎年吉野川祭り納涼花火大会が催されます。
花火の歴史や鍵屋弥兵衛についてもっと詳しく知りたい方は、鍵屋弥兵衛の出身である関西・奈良県五條市大塔の歴史、民俗、文化や伝統の技術などを数多く展示している大塔郷土館にもぜひお越しください。